MATSUMOTO | 20.Apr.2025 | 日本
2025年4月、奈良県の吉野を再び訪れました。
桜の名所として名高いこの地を訪れるのは、これで4回目になります。
2年前は花が散りかけており、昨年はまだ咲き始める前。いわば「見頃のタイミング」を逃し続けてきました。
2年前の様子はこちら
[奈良・吉野]吉野の桜と日本人の美意識
そして今回は、これまでで最も美しい時期の桜に出会うことができました。
吉野は、日本の奈良県南部に位置する山あいの地域です。
この地域は、桜の名所として知られており、特に「吉野山」は世界遺産にも登録されている歴史的な場所です。
約3万本の桜が山全体に植えられており、標高に応じて「下千本」「中千本」「上千本」「奥千本」とエリアが分かれていて、下から順に開花していきます。つまり、訪れるタイミングや歩く場所によって、異なる“春の姿”に出会えるのが吉野の魅力です。
今年の桜はまさに見頃。下千本あたりは満開で、華やかに咲き誇っていました。
中千本ではまだ咲きかけの蕾も多く、山全体が「これからピークに向かう」ような、そんな静かな熱気に包まれていました。
満開の圧倒的な迫力とは違い、咲き始めの花々には期待と緊張感があり、その瞬間だけの美しさを感じました。
日本最古のロープウェイ「吉野山ロープウェイ」。桜のシーズンは行列必至の人気ぶり。
ロープウェイに揺られて山上へ。斜面に点々と広がる桜が迎えてくれる。
吉野の下千本の桜。咲きかけの枝越しに、曲がりくねった山道が見える。
落ち着いた和室でひと休み。窓の向こうには、吉野の山並みが静かに広がっている。
抹茶とわらび餅でほっと一息。花見の合間に味わう、小さな贅沢。
中千本の遊歩道から望む吉野山。咲き始めた桜の向こうに、春が連なっている。
夜中には雨が降っていましたが、翌朝には青空がのぞき、空気が澄んでいました。
雨上がりの朝、宿の庭にしだれ桜が光を受けて静かに揺れていた。
庭の奥に広がるしだれ桜と苔の緑。色とりどりの春がゆっくりと立ち上がる。
午前中には吉水神社へ。中千本の高台にあるこの神社からは、眼下に広がる桜の海が一望できます。
「絶景」とはまさにこのことで、思わず言葉を失うほどの眺めでした。
かつて後醍醐天皇も滞在した吉水神社。歴史と桜が同居する静謐な空間。
日本最古の書院造とされる吉水神社。障子越しに望む春の山は、まるで額縁に収めた一幅の絵のよう。
吉水神社から望む吉野山の桜。桜が時間のグラデーションを描く吉野の絶景が広がります。
午後には、電車で南へ移動し、飛鳥駅で途中下車しました。
飛鳥(明日香村)は、日本の歴史において非常に重要なエリアです。
飛鳥時代(6世紀〜7世紀)と呼ばれる日本の古代国家の始まりの地であり、多くの天皇や貴族がこの地に都を置きました。
現在も古墳や遺跡が点在しており、訪れる人に「日本のはじまり」を感じさせてくれる場所です。
飛鳥駅のホームにも桜が咲く。列車を待つ時間さえ、春の風景になる。
ホームの先に続く桜並木。旅の始まりも、桜がそっと見送ってくれる。
川沿いに咲きこぼれる桜。静かな町に春がやさしく流れていく。
駅前で自転車をレンタルしました。電動アシスト付きのものもありましたが、今回はあえて普通の自転車を選びました。この選択が、あとでかなり響くことになります。
目的地は「石舞台古墳」。古代の権力者、蘇我馬子の墓とされる巨石の古墳で、日本でも非常に有名な史跡のひとつです。
しかし、道を間違えてしまい、気がつけば予定の倍以上の距離を走ることに。軽い山道のようなルートに入り込み、上り坂が延々と続きました・・・。しかし、その遠回りの中で出会った風景は、それだけの価値があるものでした。
その景色は、まさに「日本の原風景」と呼ぶにふさわしいものでした。
石舞台へ続く道の途中。見晴らしのいい丘に春の風が吹き抜けていた。
山道を曲がるたびに現れる桜と絶景。遠回りも悪くないと思える景色。
菜の花が一面に咲く春の畑。山のふもとに広がる色彩に心がほどけていく。
飛鳥駅から自転車で30分。ようやく石舞台古墳にたどり着くと、そこには見事な満開の桜が咲き誇っていました。
石舞台古墳と満開の桜。古代の眠りと春の彩りが共演する、飛鳥の風景。
古墳の上に咲く桜という構図は、まるで時間が交差しているかのようでした。何百年、何千年も前の死者の眠る石の上に、毎年咲いては散る桜。変わらぬものの上に、移ろうものが舞い降りる。この重なりこそが、日本人が「美しい」と感じる瞬間なのかもしれません。
飛鳥時代に築かれた石舞台古墳の石室。重なり合う巨石の隙間から、わずかな光が差し込む。
春の光に包まれる石舞台古墳。満開の桜が、古代と今をつないでいるよう。
今年の吉野の桜は、ようやく“見頃”に出会えた喜びがありましたが、それでも、まだ咲ききってはいませんでした。一方で、飛鳥の古墳の上には満開の桜がありました。
咲きかけの桜と、咲き誇る桜。未来と過去の間に立つようなこの旅で、私はあらためて思いました。
桜を見に行くという行為は、ただ「美しさ」を見に行くのではなく、その年、その日、その一瞬にしかない「時間のかたち」を見に行くことなのだと。
桜は来年も咲くでしょう。でも、「今年の桜」は、もう二度と見ることはできません。それでもまた、私は吉野に向かうのだと思います。その一度きりの春に、また出会うために。